携帯メール                            中村 功
テーマとしての携帯メール
 朝起きてから夜寝るまで、携帯電話をいつも手元に置いて、メールをしょっ中やりとりする。若い人、特に大学生や高校生には、そういう人が多いはずだ。そして最近では携帯メールを自分の研究テーマに選ぶ大学生も急増している。自分にとって身近なことを研究テーマにするのは、よいことである。携帯メールをするのは楽しいことなので、研究にも興味を持ちやすいし、自分の行動を客観的に見直すことにも通じるだろう。筆者自身、1990年代初頭にはじめて研究テーマにしたのは、固定電話におけるおしゃべりという、身近な問題についてであった。しかし、そこにはいくつかの難しさも存在している。
 第一に既存研究の少なさがある。携帯メールが普及しはじめてまだ間がないこともあるが、そもそもマス・メディアに対して、パーソナル・メディアの研究が全体として貧弱であることが主な原因である。かつてある研究者は電話を研究上無視されたメディアであると言った。その後、電話の研究は多少出てきたが、それ以前の手紙や電報のコミュニケーション的研究となるとほとんど皆無である。またコンピュータ・コミュニケーションにしても、その多くは電子会議室や掲示板といった匿名の電子コミュニティーの研究で、知り合い同士のメールの研究は少ない。パーソナル・メディアは、中身が公開されないので研究しにくいという方法論上の問題もあるが、日常的連絡などは単に「便利なもの」「必要なもの」として、また、おしゃべり電話などは「とるに足らないこと」として、社会的議論の対象にならなかったことが大きい。
 第二に研究に深みをあたえることの難しさがある。携帯メールは新しいメディアだが、その利用の実態について、若者を対象とした調査がいくつかなされており、かなり一貫した結果が出ている。それによると、若者の携帯メールの利用はきわめて活発で、携帯電話の音声利用に比べてもさらに利用頻度が高い。もっとも主要な相手は、よく会う友人である。そしてやりとりする内容は、約束などの道具的利用とともに、身の回りの話題やそのときの気持ちといったおしゃべり的な内容が多くなっている。
 問題は、こうした利用実態をふまえたうえで、携帯メールの何をどのような視点から研究していくか、ということである。力強い研究には、携帯メールの何が問題で、その解明が何に役に立つのかを明確に意識しておく必要がある。しかし、既存研究の少なさと携帯メールの対象としてのおもしろさから、これらが明確になりにくい傾向がある。
 そうはいっても、これまで携帯メールのコミュニケーションは、情報行動論、社会心理学、社会言語学などで研究されてきた。次にその一部を紹介しよう。
 
携帯メール特有の「ノリ」
 社会言語学では、特定の状況下で使用される特定の言語様式の習慣化のことを「レジスター」と言い、携帯メールにはどのような言語的特徴があるのかを明らかにしようとしている。三宅和子、太田一郎、中村功らの研究を参考に、それらを整理すると、次のようになる。
 第一に、話し言葉的表現が携帯メールの特徴となっている。具体的には、@文の終わりに用いて疑問・禁止・詠嘆・感動を表す終助詞が多用される(「かなぁ」「ね」「よ」「か」など。)A方言が使用されるB「は」「が」「を」など、助詞が省略されるC語順が転倒するD主語が省略されるE俗語的表現がなされる(「いこっかなー」)F1つの文が短く、ときには一発話ごと発信され、対話のようになるGいいさしで終わるH挨拶がなく、突然話がはじまる、などの特徴である。
 第二に表現の軽佻さがある。そこには勢い、かわいさ、親しさ、おどけた感じなどが含まれ、しばしば実際の会話よりも、過剰に表現されている。具体的表現形式としては、@音調的要素が多用される。これには、「−」「〜」などの長音記号、「すごいなぁ」など平仮名、「サイアクだよ」などカタカナ、「。。。」「…」など余韻の表示、「?」「!?」「!!」などの記号が含まれる。これらには「食べよー」のように、幼児的雰囲気につながるものが多い。A若者言葉(「ムリっぽい」「壊れた」)の使用。B擬音語・擬態語(「きゃ」「ふにゃーっと」)C英語や古風な表現(「sorry」「すまぬ」「遊びませう」)の使用、などがある。
 第三に絵文字・顔文字・記号を使ったグラフィカルな表現がある。よく使われる絵文字としては、<037><101><104>など名詞の代替もあるが、<001><005>007><008><011><015><017><027>など、何らかの感情を表現するものが多い。記号では、元気を示す「☆」や上機嫌を表す「◎」などが多く、通常文末に配置される。
 以上のような言語的特徴が全体として携帯メール独特の「ノリ」を作っている。その効果を社会心理学的に考えると、こうした表現上の習慣は、落ち込んでいる時でも元気であるような雰囲気を出したり、幼児的雰囲気で感情を包むことによって、相手を気づかったり、葛藤を避けるという、対人的効果をもたらしている、ということになるだろう。
 
孤独恐怖とコンビニ的人間関係
 情報行動論では、どのような人がどのようにメディアを利用し、その結果どのような社会的・心理的影響を与えるのか、を実証的に検討している。ここでは、携帯メールが若者の人間関係に与える影響に関するいくつかの議論があるので、それを紹介しよう。
 第一に、携帯メールのやりとりは文字上に限られ、都合のよいときだけ応対すればよいので、対面的関係より、表層的である。故に、携帯メールは若者の人間関係を表層化・希薄化しているのではないか、という議論である。しかし辻大介、三上俊治らの調査や、モバイルコミュニケーション研究会の調査によると、携帯メールを利用する人ほど友人と密につきあうことを好むという、逆の傾向が確認されている。また橋元良明が各種調査を検討して見いだしたように、そもそも、最近の若者の友人関係が表層化してきたというデータ的裏付けがないという。携帯メールをよく利用する人は対面的接触も活発なので、深い人間関係を持つ人が多いのであろう。
 第二に、携帯電話や携帯メールでは相手がわかるので、相手を選んでコミュニケーションがとれる。ここから携帯メールによって友人関係が選択的になってきたのではないかという議論がある。しかし実際に調査してみると、「何をどこに何をしに遊びに行くかによって、一緒に行く友達を選ぶ」というような「人間関係の切り替え志向」と携帯メール利用とは関係性が見られなかった。ここでも携帯メールが人間関係に及ぼす影響は否定されている。
 第三に携帯メールと孤独との関係がある。メールを出したのに返ってこないと寂しい気持ちになる。こんな事ならメールなどかえってないほうがよかった、と感じることもあるかもしれない。では携帯メールは孤独感を増加させるのか。しかし調査によると携帯メール利用頻度の多い人はかえって孤独感が少なかった。そういう人は友人も多く対人関係が活発なので、孤独感も少ないのだろう。ただ、著者の調査によると、携帯メールの利用頻度が高い人には、いつでも誰かとつながっていなくては不安だという、孤独恐怖の感情を持つ人が多かった。暇なとき・寂しいとき、携帯メールは相手の事情を考えずに、こちらが好きなときにいつでも送信できる。場合によっては何人かに同報することもあるだろう。そうすれば誰かが何かを返信してくれる。携帯メールの関係は、とりあえずの必要性を満たしてくれる、24時間営業のコンビニのような人間関係である。孤独恐怖が強い人はそんな関係を便利に使いこなしているのである。しかしそんな便利さに慣れてしまうと、孤独に耐える力が育たないなど、何か問題が生じるのではないだろうか。
 携帯メールの研究は、自らの人間関係を振り返る手がかりを与えてくれるかもしれない。 
 
 
携帯メールの落とし穴
 コミュニケーションは独り言ではない。相手とのキャッチボールがいかにうまくいくかがポイントである。だから相手に何を発するのかも重要だが、相手の反応により神経を使い、それに的確に反応する必要がある。たとえば電話の会話で重要なのは相づちである。表情が見えないだけに話し手の発言にどう感じたのかをいちいち声にして伝えなければならない。一方話し手は聞き手の相づちや声の調子に注意して、相手が自分の話に興味を持っているのか、あるいは自分の話に同意しているのか、等を判断することになる。しかし携帯メールだと相手の反応を知ることが電話以上に難しい。相手の反応は文章、絵文字の量や質、そして返信がすぐにあるかどうか、等によって判断するわけだが、それらは簡単に取りつくろうことができる。よい反応だったとしても、それは単なる礼儀かもしれない。メールだけから相手の反応を判断するのはとても危険である。従って、相手の反応は、会ったきや電話など、手がかりの多い他の方法で、折にふれてチェックしておくことが大切である。
 
 
 1)NAKAMURA ISAO
 2)東洋大学 社会学部メディアコミュニケーション学科 助教授
 3)1965年東京都生まれ
 4)東京大学大学院社会学研究科修士課程終了
 5)「携帯メールのコミュニケーション内容と若者の孤独恐怖」 橋元良明編『講座社     会言語科学 第2巻メディア』ひつじ書房 印刷中
  「通信メディア」「携帯携帯メールの人間関係」『日本人の情報行動2000』東京大学     社会情報研究所編,東京大学出版会,2001年