生活状況と通信メディアの利用


 生活の情報化がなかなか進まないと言われる中で、ポケットベルや携帯電話など、比較的操作の容易な通信メディアの生活への浸透は目を見はるものがある。繁華街や電車の中など、いたるところで携帯電話やPHSで話している人を見かけるし、大学では時計代わりにポケットベルを机の上に出している学生も少なくない。本章ではこうした通信メディアが人々の生活とどのように関わっているのかを考える。 
 ところで、生活の中でよく使われているメディアというのは、各人の生活に合った形でさまざまに使いこなされているものである。電話のような通信メディアでは、メディアの内容を利用者自身が作るために、特にこの傾向が著しい。こうした作用があるために、通信メディアの利用方法やその社会的影響は、それを利用する人の生活状況と密接な関係があると考えられる。同じメディアでも、それを使う人の生活が異なれば、メディアの利用法やその役割も異なってくる。そこで本章では、具体的にどのような生活をする人がどのように通信メディアを使うのか、そしてその結果、通信メディアは生活にどのような影響をあたえるのか、を考える。本章ではまず、生活とメディアの関わりをとらえるとき、どのような視角があるのか、メディアと社会に関する諸議論をまとめた上で、電話・ポケットベル・携帯電話の各通信メディアを取り上げ、各メディアの発展の過程、利用文化の実態、そして生活状況と利用の関係について検討する。
1節 メディアと社会の関係
@技術決定論
 新しいメディアの社会的影響を考えるとき、しばしばなされるのは、メディアの技術的特徴からその社会的影響を類推することである。メディア技術が一方向的に社会的影響を決定するという議論は技術決定論と呼ばれる。
 たとえばマーチン(Martin,1978)は光ファイバーや衛星といった新しい通信技術が、テレビ電話・電子会議システム・双方向ケーブルテレビ・電子メールなどを可能にして、社会を大きく変えるという。すなわち、生活はより効率的になり、実際の移動は通信メディアに代替される。そしてその結果、人々の活動範囲は地域に限定され再び地域社会が活性化し、またこれまでの物財中心の文明は根底から変化する、という。
マーチンの議論はメディア技術が直接的に社会に影響を与えるという構図だったが、メディア技術が人間の感覚や思考方法に影響を与えることによって社会を変化させるという構図もある。1章で取り上げたマクルーハン(McLuhan,1964)の議論はその典型例である。彼によれば、メディアの形式は人間の知覚習慣を規定し、思考様式や社会構造にまで影響を与える。すなわち活字メディアは人々の思考様式を線的・論理的にして近代社会を生み、テレビは触覚的で全身感覚的な感覚パターンを作り出し、モザイク的で非論理的な思考様式を生み、部族的な社会を生み出すという。
 あるいはメイロウイッツ(Meyerowitz,1985)は「電子メディアは物理的場と社会的「場」をほぼ完全に分離する。電話、ラジオ、テレビ、コンピュータなどでコミュニケートするとき、我々が物理的にどこにいるかは、もはや我々が社会的にどこにいて誰であるかということを決定しなくなっている。」(p115)と述べ、電子メディアは物理的場所の差異を無意味化し、人間の場所の感覚を決定的に変化させると主張する。その結果、場所の差による文化的差が縮小し、プライバシーが減少し、かつては公的視線から守られていた「背後領域」が暴かれるようになるという。たとえば、かつては子供の生活の場とは隔離された大人の世界があったが、今ではテレビを通じて子供にも接触可能となった。
 似たような議論はカーン(Kern,1983)にも見られる。彼は1880年から1918年までの間の技術の発展は、時間と空間に関する全く新たな思考モードを作りだしたという。すなわち、電話・無線電信・x線・映画・自転車・自動車・飛行機などの技術が時間と空間の感覚を変え、感覚小説・精神分析・キュービズムの誕生といった文化変化の基礎となった。こうした技術は空間を「根絶」し、時間を縮めることによって「広大に広がった同時性の存在」を作りだし、新たな遍在性の感覚を生んだ。例えば電話は何百万という人々を同時的なネットワークに引き入れることによって、メッセージがやりとりされる範囲、移動性、接触点を拡大させ、生活空間を拡大する。そして人はより広範囲に住み、より大きなスケールで考えるようになり、より高貴で広い動機に適合的となる、という。
一方、ポスター(Poster,1990)によると、全ての時代は「意味作用の内的外的な構造、手段、関係を持ったシンボル交換の形態」を行使しており、@対面し声に媒介された交換A印刷物によって媒介される書き言葉による交換B電子メディアによる交換といった3つの「情報様式」の段階があるという。三番目の電子段階においては「自己は脱中心化され、散乱し、連続的な不確実性のなかで多数化される」(邦訳p11)。すなわちデータベースや電子会議においては「書き手と印刷されたあるいは手書きのテクストの手で触れることのできる物質性との結びつき」がなくなり、主体とそれが送信したり受信したりするシンボルとの関係性が覆されるという。たとえば、3章で紹介するインターネットのホームページなどでは、様々なホームページがリンクされ、ホームページを作った人が必ずしもそこで得られる情報の発信主体とは言い切れない状況が生まれている。
しかし、これらの議論には様々な疑問がある。第1に議論の進め方の問題がある。たとえばフィッシャー(1992)は、技術が人間の感覚や思考様式を変えるといっても、技術がどのようにしてその特徴を人間に移植していくのか、そのメカニズムは明らかにされていない。そして議論は技術的特性のメタファー(隠喩)に依存しており実証性がない、などと批判する。たしかにブラウン管は光の集合で画像を作っている。その点はモザイク的だが、その画像を見る人がモザイク的発想になるというのは技術的特性を思考様式をあらわすたとえにつかっているに過ぎないし、そのメカニズムも不明である。第2にメディア変化のインパクトは一面的なものに過ぎないのではないか、という疑問がある。たとえば吉見(1996)によれば、口承から活字そして電子へというメディア変容の過程は一方が廃棄されて他へ移るといった過程ではなく、一方に他方が重なっていくという重層的なものである。だから新しいメディア文化ができてもそれ以前のメディア文化も保持される。したがってマクルーハン的な図式では不十分だという。第3に、メディア技術が社会の外からやってきて社会にインパクトを与えるという図式そのものが現実的ではないという批判がある。技術は社会との相互作用によりメディアになる点を重視する社会構成主義の視角からの批判である(この議論については次に詳しく紹介する)。第4に技術決定論には社会的文脈が欠如しているものがある。たとえばマーチンは、フィッシャーの言葉を借りるならば、まるで「ビリヤード玉」のように技術的な変化が直接的に社会に影響を及ぼすと考えている。そこではよい技術はすぐに採用されるという合理主義を前提としているが、時代や国など、社会が異なれば同じメディアでも発展の仕方は異なる。だからある技術が登場したからといって、即それが社会をある方向に変化させる、という議論は単純すぎるのではないか。第5に技術決定論には利用の観点が欠如しており、利用者の主体性も無視されている。たとえばテレビ電話やキャプテンなどのように、技術的には優れていても人々がそれを受け入れなければメディアは社会的に存在できないし、逆に伝言ダイヤルやポケットベルのように供給者が思ってもみなかった使い方をされながら定着しているメディアもある。このようにメディアの定着には利用者がメディアを受け入れ使いこなす過程が必要で、その様態によってメディアのあり方や社会的影響も全く異なってくる。
A社会構成主義
 メディアの形態が出発点の技術決定論とは反対に、社会がメディアをどう形作っていくのか、という視角がある。ここでは、メディアの社会的影響ではなく、その社会的存在形式が説明の対象となる。メディアの社会的ありかたは決してその技術的性格からあらかじめ決定されているようなものではなく、社会的関係の中で生成されていく。具体的には、発明家・投資家・競争相手・組織的顧客・政府などが技術の発展をめぐり葛藤し、その結果として、はじてある技術がメディアとして社会的に存在するようになる、というわけだ。これは近年、社会史研究の中で育まれてきた考え方で、フィッシャー(1992)はこれを社会構成主義と呼ぶ。
 その中では、19世紀の電話や電灯がどのようにイメージされ、社会的に生成されたかを考察したマービン(Marvin,1988)が有名である。たとえば、1976年にベルによって発明された電話技術だが、はじめから今日のような一対一の双方向メディアとして成立していたわけではなかった。もちろん19世紀の段階から今日のような形態の電話も発達しつつあったが、それと同時にマスメディアとして電話を使う試みも盛んだった。1990年代にはイギリス、フランス、アメリカなどで電話を通じて演劇や音楽を人々に中継するサービスが行われているし、教会同士や教会と家庭を電話で結び、ミサの中継なども行われた。こうしたラジオ的なサービスを恒常的に行う組織として最も有名なのは「テレフォン・ヒルモンド」である。「テレフォン・ヒルモンド」は1893年ハンガリーのブタペストで1000の電話加入者を対象にニュースを提供するサービスを開始した。翌年には通常の電話とは異なる専用線を設置し、病院、カフェ、ホテル、法律事務所などに対して、ニュース・演劇・音楽を放送した。「テレフォン・ヒルモンド」は150人ものスタッフを持ち、6000人の加入者に対して、ハンガリー・ラジオ放送局に統合されるまで、25年間にもわたって放送を続けたという。このように、ベルの発明した技術ははじめから今日の電話になることが決定されていたわけではない。様々な可能性の中から今日の電話に社会的に生成されてきのだ。  同様のことはラジオにもいえる。1995年にマルコーニによって実用化された無線技術は、はじめは有線の電話の代替と考えられていた。その証拠にラジオ放送は初めは「無線電話」と呼ばれていたのである。この技術が今日のラジオというメディアになるためには様々な経済的あるいは政治的な作用が必要だった。1920年代にアメリカでラジオ放送が始まったが、初めは無線マニアたちが音楽などを電波にのせる程度のものだった。その後に通信機のメーカーが販売促進のために本格的な放送を開始した。その一方で電話会社が、電話と同様の観念で、放送設備を放送したい人に時間貸しにする有料放送を始めた。これらの試みが、当時のアメリカにおける産業的・政治的・文化的状況のなかで、放送局が番組を作りコマーシャルを入れて放送するという「コマーシャル放送」に結実するのである。(水越,1993)。
吉見(1993)はこうした分析の前提として、メディアの社会的成立平面を3つのレベルに整理した。第1のレベルは「基体的」レベルで活字、電気的複製音、電気光など情報の基礎単位を担うレベルである。第2にこうした基礎単位が秩序づけられた装置としてのレベルがある。つまり本や新聞、電話機、テレビ受像機のレベルだ。そして第3に産業・社会的なシステムのレベルがある。新聞社、テレビ局、電気通新事業体などシステムのレベルがここに入る。そして吉見は電話、蓄音機、ラジオ、有線放送電話、アマチュア無線などを取り上げ、ある技術が各レベルでそれぞれ社会的影響を受けながらメディアとして生成される過程を明らかにしている。
B利用中心アプローチ
 以上の社会構成主義は社会を出発点にして社会とメディア技術の相互作用に注目する。
その点で技術決定論の弊害を排していおり優れた視角といえる。しかし、メディアの社会的影響を考える上では限界がある。第1に、そもそも社会構成主義は、なぜあるメディアがこのような形で社会に存在しているのかを説明しようとする。こうした問題設定からはメディアが生活をどのように変えるのかという答えは見つけにくい。第2に、これまで社会構成主義ではおもにメディア供給者サイドに関心があり、利用者への関心が薄かった。メディアを採用するかしないかを決定するのも利用者だし、それをどのように使うかを決定するのも利用者である。メディアの社会的存在形式の形成を理解するにも、メディアの社会的影響を知るにも、利用者の動きが鍵となる。  そこで社会構成主義の社会→メディアという発想を、利用を重視しながら発展させる構図が必要になる。まず、説明すべき事柄をメディアの利用様態とする。それに影響を与えるものとして利用者の社会的状況を考える。すなわち、どのような社会的状況にある利用者がどのようにメディアを利用するのか、という問いである。もしどのような社会的状況にある利用者がどのようにメディアを利用するかがわかれば、もとの社会的状況はどのように変化するか、も見えてくる。こうした考えをここでは利用中心アプローチと呼ぼう。
利用者を中心に社会構成主義を発展させようとしたのはフィッシャー(Fischer,1992)である。彼は利用者がある技術を選択し、採用し、経験することでメディアが社会的に構成されると論じ、利用者の主体性を重視する。そして自らのアプローチを利用者自己発見的アプローチ(user heuristic aproach)と呼ぶ。彼は1940年までのアメリカの電話に注目するが、単に電話の社会的存在形式を明らかにしようとしたばかりではない。むしろ彼が最も関心を持っていたのは、電話がどのようにコミュニティーや人間関係を変化させたのか、というメディアの社会的影響の問題であった。すなわち彼の課題は@どんな人が電話を採用したのかAそれはどんな目的でBどのようにそれを利用したかC電話は生活の中でどんな役割をはたしDその利用はどのように生活を変えたか、であった。
 一方、マスメディアの内容について、どのような利用者がどのように利用し、その結果どのような満足を得ているかを考察してきた研究がある。「利用と満足」研究がそれだ。古典的な研究例としては、人々は昼間の連続ラジオドラマから情緒的解放や代理参加の楽しみを得ているだけでなく、日常生活の様々な問題の解決のための助言や忠告を得ていたという研究(Herzog H.,1944)がある。その特徴としては次のようなものがある。第1にここでは利用者が主体的存在としてとらえられている。メディア利用者はメディア供給側によって左右されるだけの存在ではなく、時には供給側が全く意図しなかったような利用の仕方をするのである。第2に利用者の主体性は利用者のニーズによって支えられているが、ニーズは生活状況の中で生まれてくる。たとえば先の例ではラジオドラマから助言を得ていたのは、日頃から人間関係がうまく行かずに悩んでいる人であった。第3に「利用と満足」研究では主観的満足を扱っているが、メディア内容の利用者の生活における役割ないし影響が射程に入っている。こうした「利用と満足」研究は社会とメディアのとらえ方ではフィッシヤーと共通点を持っている。
図2−1 社会とメディアの関係についてのとらえ方
    @技術決定論  
           メディア → 社会
 (技術特性) (文化・社会構造)
    A社会構成主義
           社会  →  メディア
(経済・政治・文化状況) (社会的存在形式)
    B利用中心アプローチ
           社会  →  メディア
        (利用者の状況) (利用様態)
 以上の各アプローチをまとめると図2−1のようになる。どのような生活状況にある人が、どのように通信メディアを使いこなしているのか、という本論の問いは、第3の利用中心アプローチに属している。 
2節 電話の発達と利用変化
@電話の発達
 1876年にアレキサンダー・グラハム・ベルによって発明された電話は、翌78年には早くも日本に輸入される。その後開業まではいささか手間取り、1990年(明治23年)に東京と横浜で電話交換事業が始まった。当時の東京は人口150万人を越す大都市でありながら、市内電車もなく、庶民の主な移動手段は徒歩であった。すでに電信はあったが、商家の業務連絡は小僧と呼ばれる若年労働者の使いによっていた。だから電話は小僧の代替と考えられ、料金もその雇用費用を基準に決定された。創業当時の電話加入者数はわずか344。その多くは企業・官庁・大商店などの事業所であった。はじめは不人気だった電話だが、便利さがわかってくると需要も増加し、好景気のたびに加入者を増やしていった。しかし明治・大正・昭和初期にかけては電話料金が高く、もっぱら業務用の連絡手段として発達していった。図2−2は電話加入数と住宅用電話の世帯普及率をグラフ化したものだが、これによると1960年代後半以降急速に電話加入数および普及率が上昇していることがわかる。逆にグラフの左3/4の部分は空白域が広がっている。これは1960年代前半以前家庭にはほとんど電話が普及していなかったことを示している。現在は日本の電話の約7割が住宅用だが、1952年の段階ではほとんど(93.8%)が事務用の電話だった。
このように、電話の普及はまず業務用に普及し、それから家庭用に普及するという2段階の発展をした。業務用を主体に電話が普及した1960年代以前の時期が「第一次普及期」、そして家庭に電話が普及し始めた1960年代から、積滞解消や全国即時ダイヤル化の完成な
図2−2 電話加入数および住宅用電話の世帯普及率の推移(1890-1990)
どが完成する1980年頃までが「第二次普及期」といえる。家庭への 普及が完成した1980年以降は留守番電話・コードレスホン・携帯電話など新たな電話サービスが広がり日本の電話は成熟期にはいる。電話は1920年および1965年からそれぞれ10年間ほどの時期に急速に普及する。前者は業務用電話の「第一次離陸期」後者は住宅用の「第二次離陸期」である。
A利用文化
 メディアの利用の仕方は、その技術特性によってあらかじめ決定されているものではなく、社会、特に利用者によって決定される面が大きい。人々によって作られたある利用方法が普及し、定着すると、それは利用文化となる。日本においては、19世紀末の欧米のようなラジオ的電話の試みはなされなかったが、その原因としては、事業が官営で行われたこと、設備的資金的な余裕がなかったこと、などが考えられる。先に述べたように草創期から日本の電話は、小僧の代替として、業務用の道具として使われていた。また電話加入料金が高価だったため、商店などにとっては電話は信用の資源でもあった。 
しかし、電話が次第に庶民が気軽に使えるメディアとなると、新しい利用文化が広まった。それは、電話で用件以外のことをとりとめもなく話す、おしゃべり電話の文化である。日本では長い間、電話でのおしゃべりは、いけないものとされてきた。例えば1923年の京都の電話帳には、通話の仕方として次のような記述が見られる。「送話口に口を近づけて話さねばなりませぬ、又話はなるべく簡単(てみじか)にすることが肝要です。口を離せば大きな声でも先方へ届きません。長い話はいつまでも話中になつて他所(ほか)よりかけることができません」あるいは、1950年ごろ電話ボックスに貼られていたポスターには「みんなの電話よ!通話料は必ずきちんと入れましょう。お話はなるべく簡単にすませましょう」とある。前者は話し中の増加を恐れたもので、後者は公衆電話の待ち時間のいらいら防止を目的としているが、いずれにしても電話事業者は長電話をよくないものとしていた。長電話をして、誰かが電話設備を独占すれば、結局どこかで回線や交換機を増設しなければならない。だから電話設備の整備が十分できない状況では、事業者としては、長電話は困るのである。加入を申し込めばすぐつくという状態(それまでは設備建設が追いつかず申し込んでも何年も待たされる状態(=積滞)だった)になり、設備に余裕ができるのは、日本ではようやく1978年のことである。設備に余裕ができれば長電話はそのまま収入増になるわけで、今度は逆に盛んに推賞されるようになる。筆者が知る中で最も早いおしゃべり電話奨励の広告は積滞解消から3年後の1981年に出された「夏にのるおしゃべりウェーブ・電話の声がはずみます」(『電電東京』昭和56年8月号)というものだ。その後は1985年の「カエルコール」や「ふるさとコール」の通話促進キャンペーンが続き、90年には「パシャマコール」の夜間割引制度へと長電話が商品化されていく。ただ、このように1980年代に入って急におしゃべり電話が宣伝されるようになったのは、電話事業者側の都合によるもので、電話利用の実態とはまた区別されなければならない。
 では、おしゃべり電話が普及したのはいつだろうか。大正・昭和初期から、新聞や映画では商店や病院の従業員が私用で長電話をするシーンがみらみられ、電話でおしゃべりをする習慣自体は昔からあったようだ。しかし、そのころは業務の場にしか電話がなかったので、おしゃべり電話もマイナーな利用法にとどまっていた。おしゃべり電話の基礎が作られたのは、公衆電話の普及によって電話が庶民のものになり始めた、1950年代後半からのことである。前述の長電話を諫めるポスターにもそれは現れているし、電電公社では1964年に、3分ごとに信号音を出して公衆電話の長電話を防止する実験も行っている(金光昭,1965)。あるいは、1965年10月23日に放送されたNHKのニュースショー「スタジオ102」では電信電話記念日にあたり次のようなやりとりがなされていた。
 大泉周蔵公社総務理事「…とくに最近は若いかたがたが非常に電話を気軽にお使いにな  りまして、これが長いというんで、色々ご批判もあるようでございます。」  野村泰治アナウンサー「はあ、そうですか。要するに用事がなくても、ちょっとお友達  同士かけて、会話を楽しむということですね。」  理事「そうでございますね。電話の使い方もだんだん進んでまいりまして、昔われわれ  は電話というものは用事のあるときにかけるものだと思いこんでいましたんですが、  若いかたがたは電話を見ると用事を思い出すというような、電話を楽しむ気風もおありのようでございます。」  野村アナウンサー「そうですね」  大島道子アナウンサー「あの、用事がなくても、お手紙のかわりに電話をかけるという  ような、そういう風潮もありますね。」
   このように、すでに1960年代から若者のおしゃべり電話の習慣が問題になっていた。そしてついに1969年から72年のあいだには長電話防止のために、公衆電話の3分打ち切り制という制度まで施行される。
こうした基礎の上に1960年代後半から家庭に電話が普及し始めたのである。1971年に電電公社が東京圏の住宅用電話加入世帯に行ったある調査(福田ほか,1972)では、1週間の通話内容を日記式に記録している。そこでは雑談(10.5%)近況報告(9.5%)とおしゃべり電話とみられるものが全通話の約2割を占めていた。あるいは電電公社が1973年に全国の住宅用電話加入世帯6302世帯に行った調査(営業局市場課調査担当,1974)では、最近1週間の発信中最も多かった通話内容を聞いているが、市内通話では15%、同一県内向けでは27%、県外向けでは38%の世帯が近況報告のための通話が最も多かったと答えている。筆者らの調査(橋元他,1992)では現在でもおしゃべり通話は全体の2−3割程度であり、このころからすでにかなりおしゃべり電話が行われていたことがわかる。
 おしゃべり通話が増えれば、1回あたりの通話時間も増え、その結果1世帯当たりの通話料金も増えるはずだ。そこで、総務庁統計局の「家計調査」の電話通話料金支出を手がかりに、電話保有世帯の1年間の通話料金(市内3分を1単位とする)を計算した。その結果、電話の家庭普及が始まった1960年代の後半には住宅用電話所有の1世帯あたりの通話料金は減少したものの、1970年代になると通話料金は急増していた(図2−3)。たと      図2−3 家計調査による1世帯当たりの年間通話量
えば1973年から1987年までの間、世帯あたりの通話料金は1.7倍に増加している。60年代後半の低下は、電話に加入したもののまだ十分に使いこなしていない家庭が多かったためと考えられるが、問題は70年代に入ってからの増加である。世帯当たりの通話料金には通話回数と通話時間と通話距離と世帯人数などが関係しているが、ここでの通話料金の伸びは、1回当たりの通話時間の増加の影響だと考えられる。というのは第1に、さきに触れた1973年の調査では、1人あたりの利用回数が週4.7回、いっぽう内閣総理大臣官房広報室が1987年に行った「暮らしと情報通信に関する世論調査」では1人あたり週4.72回と、通話回数はほとんど増えていないからである。第2に、この時期、世帯構成人員は低下しているので、世帯の通話料金の伸びは世帯人数の増加によるものではない。第3にこの時期は市外通話の割合も上昇していないので、料金の伸びは通話の遠距離化によるものとは考えられないのである。通話料金の面から見ると、家庭の電話の1回当たりの平均通話時間の増加、すなわち長電話化は1970年代の前半から後半にかけて急速に進行したと推定される。
 このようにみると、おしゃべり電話は1950年代交後半から普及した公衆電話によって基礎づけられ、1960年代後半からの電話の家庭普及により1970年代に本格的に普及した、といえるのではないだろうか。この期間は電話事業者は長電話を規制しようとしてきた時期に当たる。利用者はそうした規制に反しておしゃべり電話の文化を育み、定着させていったのである。
B生活と電話利用の関係
 どのような生活状況にある人がどのように電話を利用したのか。日本の創業期と1940年代までのアメリカの例を見てみよう。  日本の創業当時の主な加入者は、会社・官庁・新聞社・相場関係者・花柳界であった。日本の電話事業は官業であったから、まず官庁に電話が置かれるのは当然のなりゆきだった。しかし、架設状況を見ると本省・本署など行政の中央機関と出先機関の間に設置される傾向があり、その間の通信ニーズを満たす必要性もあった。事実、明治19年1月29日付けの『東京日日新聞』には「各官省にては、従来郵便もしくは便にて公務を往復させるるが、この費用を計算するときは、ずいぶんばく大なり。今もし電話機を架設すれば一時は費用を要するも長年に用いられて公務もはかどり、入費も少なかるべし」として、陸軍省で電話架設を計画していることが報じられている。  次に会社だが、ここでも同一の組織の本部と支部で導入されるケースが多い。例えば創業時に会社は61の電話をひいたが、うち16は支社に置かれ本社とやりとりする形になっていた。ここでも官庁と同様のニーズがあったと考えられる。  新聞では早い時期から国内外の広い範囲に通信員が配置されていた。例えば東京日日新聞では、明治13年までに横浜からロンドンに至るまでの広い範囲でのニュース収集網を作りあげていた。(『毎日新聞百年史』)これら遠隔の通信員からのニュースは電話以前は郵便や電信によって集められていた。このように広いニュース網を持ち、しかもニュースの迅速性を売りものにしている新聞社には、既に電話創業以前から遠隔地とのスピーディーな通信を必要とする状況にあったのである。  一方、米相場や証券取引関係でも迅速なテレコミュニケーション手段は重要であった。米取引では、相場情報の伝達の必要から、電信電話以前から様々な速報的通信メディアが開発されてきた。たとえば江戸中期になると「旗振り通信」のシステムが確立し、盛んに利用された。これは、取引所の近くに作った櫓の上に人が登り、そこで旗を振る。これを12キロぐらい離れた高台から望遠鏡で見ていて、同じように旗を振って次々に伝えていくというシステムだ。伝達速度は、大阪から和歌山までが3分程度という、迅速なものであった。明治になるとこれは証券取引にも使われ、大正時代まで続いたという(高橋善七,1986)。電話の利用法は、第1に取引所の立会場からそのとき時の相場を仲買業者に伝えること、第2に仲買店で受けた注文を執行するために取引所に連絡すること、第3に有力客による仲買店への注文、などがあったようである(石井,1994)。  一方、料亭・芸者置屋・待合茶屋などの花柳界の電話だが、見番を中心とする芸者配給システムがあり、座敷が終わったり長引いたりした際に見番に連絡し指示を仰ぐということに電話が使われていたようだ。  ここで重要なことは、第1に迅速なテレコミュニケーションを必要とする状況と電話利用との間に密接な関係があること、第2にそのような状況はすでに電話以前から旧メディアを使ったシステムとして存在していたこと、そして第3に電話はそうした状況を作り出したのではなく、むしろそれに組み込まれ、支える役割をはたしたこと、などである。 一方、フィッシャー(Fischer,1992)は1940年までのアメリカを例に、生活状況と電話普及との間の密接な関係性を論じている。アメリカでは、1878年に東部のマサチューセッツ州で電話交換業務が始まったが、1902年の時点で最も普及の進んだ地域は東部の工業化の進んだ州ではなく、中西部や西海岸といった農村を抱えた州であった。農村部の普及の原因は、独立系の電話会社の安いサービスの存在によるところも大きかったが、フィッシャーは地理的に拡散していて孤独な状況にあった農家の事情もあったと指摘する。一方1920年代になると農家の電話普及が逆に減少する。これには1920年代の深刻な不況が直接の引き金となっているが、農家の生活状況の変化も重要な原因であった。1920年代に農村を中心に積極的に販売された乗用車T型フォードは、散在する農家に便利なコミュニケーション手段を与え、農民を孤立から救い出したのである。自動車が電話に対するニーズを減少させ、不況にあえぐ農家がまず電話を手放した、というわけだ。実際、統計的にも最も自動車の普及と電話の普及は反比例していたのである。  では、電話の利用はそれまでの生活状況にどのような影響を与えたのであろうか。フィッシャーはカリフォルニア州の3地域(Palo Alto,San Rafael,Antinoch)を選び、これらの地域で電話が普及した1890年から1940年までの間のローカリズム(地域が住民の生活を結びつけ、他から引き離す程度)の変化と電話普及の関係を検討した。彼はローカリズムの指標として、@商業活動(地方新聞における地域外の広告主の割合)A社会生活(ボランティア活動・娯楽イベント・通婚圏)Bコミュニティーにおける関心(市外ニュースの比率・祭)C政治(選挙における棄権率)の四つの領域の状況を調べた。その結果、電話が普及したこの期間、ローカリズムには若干の小変化が認められただけであった。たしかに、地域社会の外部への関心が増大した傾向はあったものの、それによって地域への関心がなくなったわけではなかった。むしろ市内外のレジャーが増大したり、地方選挙国政選挙両方の棄権率が増大するなど、地域と地域外の活動が同時的に増大した傾向が強かった。またニュースカバレッジや政治の自律性などいくつかの分野の変化の原因は、電話ではなく、より直接的な経済・政治的な変化に求めることができた。電話によってより広いネットワークが作られ、その結果として地域の精神的コミュニティーが崩壊した、という議論は支持されなかったのである。「我々は人々がこれらの新しい装置を実に多様な方法で使っていることに圧倒される。それらは時には生活様式を革新するために利用されるが、たいていの場合は古いライフスタイルを維持するために使われる。その結果、少なくともローカリズムに関しては、装置利用による近代化への実質的な動きはわずかなものとなる。もし複雑な上述の図式が現実に近いものなら電話や自動車は20世紀初頭のローカリズム衰退の原因ではあり得ない。」とフイッシャー(1992.p221)は結論づけている。もちろん、フィッシャーのこの事例だけをもってして、あらゆる場合で電話は人々の生活に大きな影響を与えなかった、と言うことはできない。しかし、メディアの利用法が既存の生活と密接に関係しながら生まれる以上、メディアの影響も既存の生活との関数でしかあり得ない。従って、メディア技術が生活に影響を与える場合、既存の傾向とは全く逆の強力な影響を与えることは一般的に起きにくい、とはいえるかもしれない。
3節 若者の生活とポケットベル @ポケットベルの発達
「ポケットベル」はもともとはNTT製品の愛称名で、アメリカでは「pager」日本では正式には「無線呼び出し」という。電話機からベル番号を入力すると無線によってベルを鳴らし相手を呼び出すというサービスで、1958年にアメリカで最初に始まり、日本では1968年からサービスが始まった。ポケットベルは長い間、外回りの営業マンや報道関係者によって業務用のメディアとして使われてきたが、近頃は若い世代が私的目的で使うようになり、加入者も増加してきた。ポケットベル加入者数の推移を見ると1980年代末頃から急激に増加し、1995年には加入者は1000万を越えている(図2−4)。急増する加入者の中には若者が相当数含まれており、例えば首都圏でポケットベルサービスを行っている東京テレメッセージでは、1993年の個人の新規申込者のうち約8割が10代・20代の若者であったという。 図2−4 ポケットベル加入者数の推移 (NTT及び郵政省資料より)  筆者は1993年、94年、96年と3回にわたって大学生を中心とする若者に対して、ポケットベルについてのアンケート調査(1)をおこなった(以下「93年調査」「94年調査」「96年調査」と略)。ポケットベルは自ら所有していなくても電話から呼び出すことで利用できる。だから所有率とともに利用率が重要であが、調査によると、93年、94年頃はポケットベルを呼び出したことのある学生は1/3程度だったのに対し、96年には約7割に達している。またポケットベルの所有者は、93年、94年頃は全体の数パーセントであったのに対し、96年には全体の3割程度にまで広がっている。この調査の対象者は正式なサンプリングのもとに選ばれたわけではないので、必ずしも全体的な変化を正確に表しているとはいえない。しかし、1990年代の前半には大学生の間でもまだマイナーだったポケットベルが、後半になると松山という地方都市でさえ、ごく一般的なメディアとなった、という傾向性は把握できる。  表2−1  大学生のポケットベル利用 93年調査 94年調査 96年調査 93年(東京)  94年(松山) 96年(松山) 呼び出され経験 4.9 (8.7)   3.3   29.4 呼び出し経験 31.6 (29.2)   33.3 68.2 所有者 2.6 (5.0)   2.6  27.8 調査対象数(N) 230 (298)*   510  469
*( )内の数字は高校生のデータ  では、ポケットベルはどのように若者に広がっていったのだろうか。新聞や雑誌の記事をさかのぼると、意外な出発点に気づかされる。それは暴力団によるポケットベル利用である。1980年代におけるポケットベル関連の新聞記事は、そのほとんどが覚醒剤やシンナーの密売や売春あっせんにからんだ犯罪関係の記事であった。『朝日新聞』(1989年8月25日)によると、暴力団によるポケットベル利用の開始は早く、1970年頃からであるという。街を徘徊している組員に連絡をつけるにはポケットベルが便利だったのである。ところが1990年代に入ると、ポケットベルは暴力団から「チーマー」とよばれる街の不良少年や暴走族の間に広がっていった。 例えば『朝日新聞』(90年7月7日名古屋版)によると、シンナーの売人の持っていたポケベルが買い手の少年たちの間で広まったという(2)。こうした不良少年への普及が若者への普及の第1段階である。彼らに広まった理由は3つ考えられる。第1に暴力団というアウトローの世界の「エリート」が持っていたポケットベルをステイタス的にまねようとしたこと、第2に街を徘徊しながら集合する彼らの行動パターンが移動通信メディアを必要としていたこと、そして第3に1987年から売り出された数字表示タイプのポケットベルが暗号によるメッセージ交換を可能にしたこと、などである。 1992年頃になると、ポケットベルは不良少年から女子高校生を中心にした一般の若者に広まり、普及の第2段階をむかえる。第2の変化を92年とした理由には、第1に若者の間で利用が広まっているという記事が続出したことがある。(たとえば『チェックメイト』92年6月号、や『DIME』1992年12月3日号)第2に、私がインタビューした東京都内のある女子高校生によると、92年春から学校で流行し始め、そのころ学校で禁止されたという。第3に、1990年までは利用のピークが午前10時と午後2−3時というビジネスアワーだったが、1993年には私的活動の時間帯である午後10時ごろになった(東京テレメッセージの場合)。これは93年には業務より私的利用が主役になっていたことを示し、前二者の変化を裏づける形となっている。そして第4に図2−4でわかるように、加入者の増加が92年を境にいっそう急激になっている。先に述べたように、これは若者の加入者の増加によるものであった。この時期の特徴としては、私的利用のメジャー化、女性への利用の拡大、そして数字の語呂合わせによるメッセージ伝達の発達、などがあげられる。  若者への普及の第3段階は、1995年以降の一般的普及である。第2段階では一般の若者に広がったといっても、口紅や名刺を持ち歩くような少し進んだ女子高校生や一部の大学生だったが、96年調査に見るように、95年以降は一般の大学生にも本格的に普及する。その理由には、第1に94年末に登場した「かな表示タイプ」のポケットベルの人気がある。これは、たとえば「11」と入力すると「あ」が表示されるというように、2つの数字の組み合わせで自由に文を送れるものである。この人気で、95年には各地で交換能力不足による輻輳や、販売の差し控えが起きている。そして第2に、高校生の段階でポケットベルが流行した世代が大学生になってきたことがあげられる。この段階では語呂合わせにかわり、ひらがなによる自由文のメッセージ伝達が主流になる。
A利用文化
 このように若者にポケットベルが普及していったとき、彼らはどのようにポケットベルを利用し、どのような利用文化が生まれたのだろうか。 まず第2期にあたる93年の学生調査からその特徴を見てみよう。第1にあげられるのが数字による語呂合わせやコード表などによるメッセージ伝達だ。もともと数字表示機能は連絡すべき電話番号を表示させるために開発されたものである。若者のこうした利用法はかつての業務上の利用では見られなかった点で、そして供給者の意図とは異なる利用者によって開発された利用法である点で注目に値する。93年の学生調査によると、語呂合わせによるメッセージ伝達を「1つもやりとりしたことがない」と答えたのは利用者の35.1%で、語呂合わせによるメッセージ伝達はかなり一般的に行われていたといえそうだ。語呂合わせのメッセージは大きく4つに分けられる。最も頻繁に使われるのは51「来い」(31.0%)、49「至急」(31.0)、0906「遅れる」(13.8%)など「待ち合わせ」のためのメッセージで、2番目に多いのは0840「おはよう」(21.6%)、0833731「おやすみなさい」(18.1%)、8686「ハローハロー」(11.2%)といった「挨拶」である。これらは単独で使われることも多く、その場合コンサマトリーな(自己充足的)利用法となる。3番目は39「サンキュー」(15.5%)、33414「さみしいよ」(11.2%)、14106「愛してる」(8.6%)など「感情伝達」のためのメッセージ群で、4番目が428「渋谷」(18.1%)、85「ハチ公」(14.0%)など地名を表すメッセージだ(括弧内はいずれもやりとりした経験のある人の割合)。ここから、待ち合わせなど道具的な使い方が多いこと。その一方で、「挨拶」や「感情伝達」といったコンサマトリーな使い方もかなり行われていたことがわかる。  第2にあげられるのは、ポケットベルに対する態度面の変化である。業務上の利用ではポケットベルは便利な反面、束縛感をともなっていた。事務所などから呼び出された場合、営業マンとしては電話をする義務があったのである。ところが93年の学生調査でポケットベルを利用することでどんなことを感じるかをたずねたところ、「行動が自由になった」(27.6%)や「いつでも誰かとつながっているという安心感がある」(19.8%)といった肯定的な感想を持つ人が多かったのである。この変化の理由としては、若者の利用は相手が友達や恋人で、目的も遊びに関するものである点が挙げられる。しかしより重要なのは、ポケットベルに対するする新たな文化が生まれたことである。業務のベルでは、返事が強制的で束縛のメディアだったが、若者のポケットベルでは、返事は強制的でなく、気楽なメディアになったのである。これは96年の調査結果だが、「ポケベルのやりとりは、電話ほど強制的でなく、気楽な感じがするところが好きだ」と答えた利用者は全体の38.9%に達している。こうした文化が生まれた原因としては、第1に若者のポケットベルでは、語呂合わせや自由文のメッセージ伝達で返事を期待しないメッセージ伝達が頻繁に行われること、第2にポケットベルが結ぶ人間関係が友達という対等な関係であること、そして第3に「持っていなかった」「気がつかなかった」「入っていなかった」などの言い訳ができること、などが考えられる。 次に96年調査から第3期の利用の特徴をみる。第1に挙げられるのが自由文によるメッセージ伝達の発達だ。「自由文のやりとりをよくする」と答えたのが59.5%だったのに対し、「数字の語呂合わせをよく使う」と答えたのは6.1%にすぎなかった。その一方で「電話番号だけのことが多い」とした利用者も22.1%いた。第2に、やりとりしたことのあるメッセージとしては、「電話して」(49.2%)が最も多く、次いで「おやすみ」(38.5%)「おはよう」(33.6%)とといった挨拶、それから「どこにいる」(38.5%)「なにしよる」(28.6%)といった相手の状態をたずねるメッセージ、そして「遅れる」(26.7%)「来い」(15.6%)などの待ち合わせに関するものが多かった(%はいずれも自由文による伝達)。ポケットベルの利用目的でも「折り返し電話してもらうため」(64.9%)が最も多く、ついで、「待ち合わせのため」(51.9%)とか、「外出者同士が落ち合うため」(30.9%)と道具的な利用が多い。しかしその一方で「ちょっとした気持ちを伝えるため」(35.9%)や「友人・恋人と頻繁に連絡を取るため」(39.3%)といったコンサマトリーな利用もされている。また「深夜電話するため」(30.2%)といった自宅学生特有の使い方もあった。第3期では自由文が多くなったものの、道具的な利用を基本としながら、コンサマトリーな利用もなされると言う点では変化は見られない。
Bポケットベル利用と若者の生活
 こでは若者の人間関係と日常生活の行動にしぼり、ポケットベル利用と若者の生活の関係を考える。  近年、若者の人間関係がかつてより希薄化しているのではないか、とよく論じられている。たとえば高橋(1988)は、挨拶したり、談笑したり、あるいは喜びや悲しみをともにすることはあっても、それ以上の深さをもつ関係に展開せず、かりに展開しても一定の領域に限られる、そのような人間関係が最近の若者に顕著に現れていると指摘する。そして、こうした人間関係は、家族に代表されるような親密で全人的な第1次的関係とも、利害関係に基づく機能的で一面的な第2次的関係とも異なるとして、1.5次関係と名づけた。この1.5次関係には、対人不信感や孤独感、対人関係の狭小化、対人関係の質的希薄化などの要素があるという。  あるいは宮台(1994)は、80年代以降の若者の特徴として、自分のかかえる問題を他人に伝達したり共有したりすることについてほとんど期待していない点を指摘する。情緒的なわかりあいを軸とする「人格的コミュニケーション」、役割に対する制度的信頼を軸とする「非人格的コミュニケーション」に対し、彼らのコミュニケーションはノリを同じくする者たちの「共振的コミュニケーション」であるという。カラオケボックスでの大騒ぎに見られるように、そこでは自分の内面を不問にしたまま同一の記号界内部での防衛的な自己提示のみがなされる。宮台はその原因を、コミュニケーションにおいて信頼できる前提が弱小になったために、深いコミュニケーションがリスキーになったからだ、としている。  一方、大平(1995)は、近年若者において「やさしさ」の意味が変化しており、新しい「やさしさ」が現代若者の特徴的なパーソナリティーを表している、という。たとえば、電車で老人に席を譲らないのは、年寄り扱いされたくない老人に配慮した「やさしさ」からだし、両親に深刻な相談をしないのも親に心配をかけたくない「やさしさ」からである。大平によれば、現代若者の「やさしさ」とは、相手の気持ちに立ち入らないようにしながら、なめらかで暖かい関係をつくることなのである。相手に同情したり、一体感を持つのは逆に「ホット」でやさしくないということになる。だから「やさしい」若者にとっては、「友達とは自分の気持ちを話し合うよりも、あたりさわりのない話題をしゃべったり、だまってマンガを呼んだりしているほうが好き」ということになる。  「1.5次関係」も「共振的コミュニケーション」も「やさしさ」も表層的で希薄な人間関係を表している点で共通性があるが、こうした人間関係がポケットベル利用と結びついている、と指摘されている。たとえば大平(1995)は電話と違ってポケットベルだと電源をオフにすることもできるし、気がつかなかったと言うこともできる。気が向いたときにだけ電話を返せばよいので受け手にとって強迫的なところがないし、呼び出す側にとっても直接電話をして迷惑がられることもないので気が楽である。だからポケットベルは「やさしい」人々にぴったりのメディアである、と述べている。あるいは岩間(1995)は、団塊の世代ジュニアと位置づけられる現代の若者の対人関係は淡泊で、人に多くを期待しない傾向がある、としたうえで、彼らがポケットベルを使うのは広く浅い人間関係を維持するためである、と指摘する。たしかに、すでにみたように若者のポケットベル利用には強制的なところはないし、そこでのつながりも淡く表層的なように見える。では本当に、ポケットベル利用者は表層的な人間関係をもつ「やさしい」若者たちなのであろうか。  96年の調査では、表層的人間関係に関連すると思われる項目を6つたずねた。そして整理のためにそれらを因子分析(主成分解・バリマックス回転)にかけた。その結果3つの因子が抽出された。第一因子(寄与率23.2%)は「親友といえども深刻な相談をして気をわずらわせるのは避けた方がいいと思う」「友達に頼ったり、頼られたりするのはわずらわしい」「友達とは自分の気持ちを話し合うよりも、あたりさわりのないおしゃべりや、だまってマンガを読んだりしている方が好き」など友人と表層的な人間関係をとろうとする態度の因子である。第二因子(寄与率18.8%)は「自分と友達の考えは違っていて当たり前だと思う」「人は裏では何を考えているかわからないと思う」など対人不信感の因子である。第三因子は(寄与率17.9%)は「友達とむきになってけんかすることがある」の1項目で構成される。これは表層的人間関係をとろうとする態度とは別の因子で、あえて解釈すれば「興奮しやすいパーソナリティー」を示す因子といえるかもしれない。ここで第一因子を構成する3項目を表層的人間関係の態度を測定する尺度として採用することにした。すなわち、「親友といえども深刻な相談をして気をわずらわせるのは避けた方がいいと思う」「友達に頼ったり、頼られたりするのはわずらわしい」「友達とは自分の気持ちを話し合うよりも、あたりさわりのないおしゃべりや、だまってマンガを読んだりしている方が好き」といった項目に「はい」と答えた場合を1、「いいえ」とした場合を0としてたしあげ、0から3の尺度を構成した。0を表層的人間関係をとろうとしない者、1−3をとろうとする者としたとき、調査対象者の33.1%が表層的人間関係をとろうとする者だった。一方、週に数回以上ポケットベルを利用すると回答した人をポケットベルの常  図2−5 ポケットベル利用と表層的人間関係 96年調査
  表層的人間関係をとろうとする人 χ2:p<.01
  ポケットベル非常用者 ****************  38.5%
ポケットベル常用者    **********  23.5%
用者とした。するとポケットベル常用者は全体の34.8%となった。  その上でポケットベル利用と表層的人間関係をクロス集計した。その結果、予想に反して、表層的人間関係を持とうとする者はポケットベル常用者よりも非常用者に多くみられたのである。すなわち、表層的人間関係の態度をとろうとする者はポケットベル非常用者で38.5%、常用者では23.5%であった(図2−5)。カイ自乗検定でもこの差は1%以下の水準で有意であった。ここではポケットベル利用者は言われているように表層的な人間関係をもつ「やさしい」若者ではなく、逆に、むしろ深くて「ホット」な人間関係をもつ若者である傾向が発見されたのである。  これは一体どうしたことだろうか。それを解くカギはポケットベル以外の対面的な人間関係にある。というのは、ポケットベル常用者は対面的人間関係が非常用者に比べて活発な傾向が見られるのである。たとえばポケットベル常用者は「私は人と会っておしゃべりをすることが多い方だ」し、社交的な集まりにはよく出かけるほうだ」し、昼食も誰かと一緒に食べることが多い傾向がある(表2−2)。こうした活発な対面接触の中で「ホット」な人間関係が育まれたと考えられる。
表2−2 ポケットベル利用と対面関係 (%) χ2:p<.001 96年調査 人と会っておしゃべり 昼食を一人で 社交的な集まり          をすることが多い 食べる人の割合* によく出かける** ポケベル常用者    76.4 13.3 59.4 ポケベル非常用者   50.5 32.9 36.2 *「ほとんど一人で食べている」と「どちらかといえば一人で食べている」を合算した値 ** 「だいたいあてはまる」と「少しあてはまる」を合算した値  先に見たようにポケットベルの主な利用目的は電話や待ち合わせのためであった。ここでポケットベルはより親密なコミュニケーションのための道具と解釈できる。また、多く(51.5%)の人がポケットベルのやりとりは普段よく会う人に限られると答えていることから、挨拶のようなコンサマトリーなコミュニケーションも普段からよく会う人との付加的なものである可能性が高い。ここから、大学生のポケットベル・コミュニケーションは対面コミュニケーションの上に重層的になされるものであると考えられる。たしかにポケットベルのコミュニケーションだけを取り出してみると、そこには非強制的で独白的ともいえるコミュニケーションがある。しかし、だからといってポケットベル利用者は表層的な人間関係を持っているとか、あるいはポケットベルはそれを助長するとは必ずしもいえない。メディア外の利用者の生活も把握した上でメディアと利用者の関係を考えないと、メディアの社会的意味を見誤ることになるのではないだろうか。
表2−3 ポケットベル常用者の活動性 (**:p<.01,***:p<.001) 96年調査
午後10時以降の(%) 在宅時間 忙しくして          外出(ホトンドシナイ)*** (h)** ANOVA いるのか好き(%)*** ポケベル常用者 23.4 χ2 11.8 59.0  χ2 ポケベル非常用者 40.9 12.6 40.7  次に、対人関係以外の生活行動とポケットベル利用の関連を簡単に見ておこう。ポケットベル常用者の特徴としては、普段から夜間外出をしがちで、在宅時間やテレビ視聴時間が短いということが挙げらけれる。また「いつも忙しくしているのが好きだ」という活動的な人も多い。ポケットベルは移動体通信なのでこのように活動的で移動が多い人が利用するのも当然のことといえる。 では、ポケットベル利用は若者の生活にどのような影響を与えるのだろうか。一部ではポケットベルは若者を家から街に誘い出し、不良化を促進するという議論がある。96年調査でポケットベル利用者に利用による変化をたずねたところ、「外出が多くなった」とする人は5.7%だった。ポケットベル利用が夜間外出と関係がある割にはこの数字は少ないといえる。ここから、すでに外出しがちな若者がポケットベルを利用するという傾向が強いようだ。その一方で「在宅中の電話がしやすくなった」とする人は20.6%もいた。学生の話では、ポケットベルは深夜家族に気がねなく電話するためにもっぱら使っている学生もいるという。在宅中の電話には夜間外出を誘う電話もあるだろうが、家族への気がねなしに電話できることで在宅中の生活を快適にするという逆の作用もあるようだ。したがって一概に、ポケットベルが外出を促進する作用がある、とはいえないのではないだろうか。一方、電話で話す回数は、「電話で話す回数が減った」とする人が11.5%なのに対し、逆に「増えた」とする人も17.9%いた。あるいはポケットベルはあまり会わない人とのコミュニケーションを活発化するか、という疑問に対しては、「あまり会わない人とのコミュニケーションが活発になった」とする人が22.1%いたのに対して、逆に「よく会う人とのコミュニケーションがより活発になった」とする人が27.9%いた。このように見ると、ポケットベルの生活に対する影響は全くないとはいえないが、その方向性は時には全く逆方向に作用している。したがって、これまでのところ、ポケットベルが若者の生活をある方向に劇的に変化させた、とはいえないようである。
4節 移動電話と利用者の生活 @移動電話の発達
 移動電話とは自動車・携帯電話(以下「携帯電話」と略す)とPHS(パーソナル・ハンディホン・システム)をあわせて移動時に使う電話のことを意味する。自動車電話のサービスが初めて開始されたのはアメリカのセントルイスで1949年のことである。日本では電電公社が1979年に世界に先駆けてセルラー方式(4)を利用した自動車電話のサービスを開始している。その後機器の小型化によって、日本では1987年に携帯電話と呼ばれるものが 図2−6 移動電話の普及 登場する。図2−6からわかるように、規制緩和によって新電電会社が参入した1988年以降、加入者が増加しはじめ、94年春の端末売り切り制開始後の実売価格の低下が増加には拍車をかけた。96年度末には加入し屋が1000万を突破し、爆発的に増加するが、これは第1に95年夏のPHS開始が移動電話にパーソナル・ユースを呼び起こしたこと、第2にPHSを購入しようとした人がエリアの狭さなどから携帯電話に流れたこと、そして第3にPHSに対抗するために携帯電話料金がさらに下がったこと、などが原因と考えられる。  一方、簡易型携帯電話などとも呼ばれるPHSは日本が独自に開発したもので、1995年7月にサービスを開始した。携帯電話より出力の弱い(携帯電話の電波到達距離が数キロなのに対しPHSは100-500メートル)基地局を公衆電話、ビルの屋上、電柱などに数多く設置し、無線を通じて通話ができるシステムである。携帯電話と比べると、高速移動中の通話ができない、通話可能エリアが狭いとなどの短所があるが、料金が安い、伝送容量が大きくデータ通信に向いているなどの長所がある。まだ各地でサービスが始まったばかりだが、1996年3月の時点ですでに150万の加入者がいる。ちなみに96年の松山の学生調査では、携帯電話所有者が1.7%だったのに対し、PHS所有者は6.7%であった。
A移動電話の利用文化
 携帯電話とPHSでは多少使われ方が異なるので、まず携帯電話から、その利用の様子を見てみよう。筆者は1995年5月に兵庫県南部地域のNTTドコモ関西の携帯電話加入者683人に対して調査を行った(4)(以下「携帯調査」と略)。それによると、利用頻度は、1日に5回以上が35.3%、1日に数回が41.9%、週当たりに換算すると20.3回とかなり頻繁に利用されていた。利用目的では、「私用で利用するのがほとんど」とする人はわずか11.5%おらず、「仕事にも私用にも両方利用している」とする人が49.0%と最も多くなっている。仕事を主にしながらも次第に私用にも使い始めた様子がうかがえる。次に利用者が携帯電話を具体的にどのようなことに役立てているかをたずねたところ、全体的に役に立つ項目が多かったが、いつでも連絡がつくというアクセシビリティーの確保と、仕事関係にとくに役に立っていることがわかる(表2−5)。     表2−4 移動電話の利用頻度 (%))携帯調査・PHS調査 1日5回− 1日数回 1日1回 週数回 週1回 月数回 月1回− 携帯電話 35.3 41.9 4.0 13.7 0.9 3.4 0.9 PHS − − 24.1 36.8 10.3 14.7 6.3 固定電話* 53.0 26.8 5.9 9.8 2.9           *固定電話の回数は東京都民対象の調査(橋元他1992)による  利用習慣で注目されるのは「自動車の中で使うことが多い」とする人が70.3%もいることだ。また、自分の携帯電話の番号はごく限られた人しか知らない(68.7%)、携帯電話からの発信相手の数は通常の電話よりかなり少ない(67.1%)と、携帯電話ではごく限られた相手とのみ通話するという習慣が確認された。同様の習慣はフィンランドでも見られ、Roos(1993)によれば、移動電話は自動車内で利用されることが多くて電話帳を利用できな 表2−5 移動電話の役割(「大変役に立つ」+「多少役に立つ」(%))携帯調査・PHS調査    携帯電話   PHS 仕 仕事上の注文の受発注のため 63.8 − 仕事上の指示や問い合わせのため 86.4 29.0 事 仕事のスケジュール調整のため 77.0 21.2 仕事上の緊急連絡手段確保のため 91.7 36.5 私 私的なことに関する指示や問い合わせのため 75.0 58.1 的用 私的なことに関するスケジュール調整のため 66.6 53.1  事 待ち合わせの連絡に   − 66.9 アビ 病気や事故などいざという時の備えとして 84.8 52.2 クリ 電話が無い所での連絡に        85.8 64.4 セテ 移動しやすくなるために      90.3 − シィ 他人がいつでも連絡がとれるため       83.7 35.0 自 通常の電話のかわりとして 59.7 38.7 己 プライバシーを守るため 28.9 28.0 充 一種のステータス・シンボルとして 17.9 − 足 おしゃべりのために 10.9 29.2   あいさつや近況報告のため 25.3  −   いために、電話番号を覚えていたり短縮登録してあるごく少数の親しい人だけにかけることになるという。  一方、PHSについて筆者らは96年1月にアステル東京の登録者857人に対するアンケート調査(5)(以下「PHS調査」と略)を行った。それによると、「私用で利用することがほとんどだ」という人が63.3%、逆に「仕事用がほとんど」とする人は7.7%しかおらず、携帯電話と異なりプライべートでの利用が主流であった。しかし、毎日利用する人は24.1%しかおらず、利用頻度は携帯電話よりもかなり低かった。この調査からは、PHSはまだ携帯電話ほど使いこなされていない様子がうかがえる。したがってPHSの役立ち度が全体として携帯電話よりかなり低いのも当然のことといえる(表2−5)。しかし、携帯電話がアクセシビリティーと仕事に関して満足が特に高かったのに対して、PHSでは「待 ち合わせの連絡のため」という私的用事に役立っている点は注目される。またPHSはプ ライベートな利用が主流の割にはおしゃべりに利用されることは少なく、主に道具的に使われているようである。
B利用者の生活と移動電話の利用
 では、どのような生活状況にある人が携帯電話を使うのか。調査の時点では、携帯電話は仕事がらみで利用している人がほとんどなので、利用者の職種は重要である。回答者の中で最も多い職業は建設業(21.7%)であった。建設業は全就業者にしめる割合がそれほど高くない(90年国勢調査では全国で9.5%)ことを考えると業界内での高い普及率がうかがえる。次いで、サービス業、卸売り業、製造業など就業者そのものが多い職種がつづく。これに対して運輸業(9.7%)、電気・ガス・熱供給・水道業(6.3%)、不動産業(2.7%)は就業者数に比べて利用者の割合が高くなっており、こうした職種が携帯電話を必要とする生活状況を生み出していると考えられる。多くの利用者に共通する生活状況としては、移動することが多い仕事をしている(78.3%)、仕事で車を使っている(76.3%)、一般の人と比べて忙しい方だ(68.5%)などがあげられる。利用者密度の高い建設業、運輸業、電気・ガス・熱水道業、不動産業などはいずれも仕事で車を使い、よく移動する職業で、そうした状況が携帯電話を必要としていると考えられる。  具体的にはどのような状況の下で携帯電話が必要になるのか、最も利用者の多い建設業に焦点をあてて、いくつかの事例を見てみよう。筆者は96年の3月に松山市内の建設現場6カ所を訪ねて、携帯電話利用者を捜し出し、聞き取りをおこなった。ある小規模建設会社(元請け)の営業社員によると、建設現場には木造でも17-18、鉄筋だと30もの業者がかかわっている。工事は予定通りに進まないことも多いし、業者間の調整をつけるのに携帯電話は手放せないという。小さな建設会社では現場事務所も作らず、1人の社員がいつくもの現場をかけもちしている。だから1日に100キロほど車で移動するが、車中の個室的空間のかけやすさもあって、車の中で利用することが多いという。またある鳶職によると、一部改造などがあると足場などが足りなくなる。そういうときに材料の不足分を注文するために使うことが多いという。また夜間外出中に翌朝の出勤先(現場)の変更の連絡が入ることもある。鳶は高いところで仕事しているので、以前は連絡を取るためにわざわざ降りてこなければならなかったが、携帯電話だと仕事中でも簡単に電話ができるので便利だとのことである。またある大工は材料の不足分の注文や、現場ではわからない細かい寸法などを事務所に問い合わせる時に、携帯電話を利用していた。その一方で、ある瓦職人のように、材料不足分の注文など仕事で利用することもあるが、帰宅時間や食事の用意などについて、家族との連絡に利用することがほとんどだ、という人もいた。このように、建設業では単に現地に電話がないばかりでなく、複数の業者の緊密な連携や、現場と事務所との連絡などから、携帯電話を必要としていたのである。インタビューを行った人はすべて以前はポケットベルを利用しており、そこからも建設業が移動体通信を必要としている様子がうかがえる。  さまざまな生活状況は、携帯電話の利用開始動機、利用習慣、そして利用から得られる満足に密接に関わっている。95年の携帯調査でそれを確かめよう(6)。まず利用者の置かれた状況の各変数を因子分析にかけて、諸変数を類似したもの同士のグループに整理する。因子分析の結果、二つの因子が抽出された。第一因子(寄与率24.1%)は「移動することが多い仕事をしている」「仕事で車を使っている」「私の生活は一般の人と比べて忙しい方だ」「以前からポケットベルを持っていた」など、仕事がらみの移動の因子であった。第二因子(寄与率19.6%)は「流行には敏感だ」「電話でのおしゃべりが好きな方だ」「夜間   表 2−6 生活状況と携帯電話利用動機・習慣・満足の関連 95年調査 (各状況別の、あてはまる人の割合、ただし満足は「大変役に立つ」+「役に立つ」の 割合の因子別の平均値)  *=P<.05; **=P<.01;***=P<.001; -=有意差なし     仕事移動状況  遊び状況 (利用開始動機)  χ2  高/低 % χ2  高/低 % 職場に電話ない *** 17.4 7.6 ** 6.7 16.0 移動多い *** 87.3 60.6 - 81.1 76.3 公衆電話の代替 * 16.7 11.1 - 17.1 13.9 自分の電話 ** 10.2 18.3 ** 19.5 11.2 ポケベル利用 *** 40.5 13.2 - 35.4 28.9 安全のため ** 3.7 10.0 - 5.4 6.2 (利用習慣) 発信専用にする ** 23.2 33.8 - 23.5 28.1 車の中で使用 *** 76.5 59.2 - 75.9 68.5 番号知らせない ** 64.1 76.8 - 69.9 68.3 通話相手は少ない ** 63.2 74.0 - 62.0 68.8 ポケベルを併用 *** 40.9 18.8 * 40.0 30.8 仕事用から私用に ** 53.3 42.7 - 50.0 49.5 無しではいられず ** 62.7 50.0 *** 77.5 51.9 (満足) ANOVA       ANOVA 仕事 *** 86.3 66.2 * 74.7 81.0 私的用事 - 70.5 71.0 *** 84.8 65.8 アクセシビリティー *** 88.2 81.4 * 89.2 84.7 自己充足 - 28.6 27.3 *** 37.8 24.8 外出していることが多い」など、遊び心や遊び行動に関係した因子であった。それぞれの因子を構成する項目に「はい」と答えた場合を1、「いいえ」を0として因子ごとにたし上げて、それぞれ「仕事移動」状況、「遊び」状況を表す尺度を作った。「仕事移動」スコア3以上を「仕事移動」状況の程度が高い人、2以下を低い人、「遊び」スコアは1以下の人を「遊び」状況の程度が低い人、2以上を高い人とした。その結果、「仕事移動」状況の程度が高い人は全体の63.3%、「遊び」状況の程度が高い人は24.0%であった。そのうえで、各状況の度合いの高低が利用や満足とどの程度関係性を持つかを調べた。その結果(表2−6)「仕事移動」状況の程度が高くなるほど「移動が多くて連絡がとれないため」「職場に電話がない」「ポケットベルで呼び出されることが多かったので」といった利用開始動機が多かった。さらにそうした状況では自動車の中で携帯電話を利用することが多 く、ポケットベルを併用する人も多かった。また得られる満足も、「仕事満足」及び「アクセシビリティー確保」に関する満足が高かった。一方、「遊び」状況の程度が高い人は、 仕事のみに使う人が少なく、携帯電話なしではいられないとする依存的利用習慣の人が多かった。また自分の電話が欲しかったという利用開始動機の人も多かった。そして得られる満足も「私的用事」や「自己充足」に関する満足が高かった。  ここから、仕事で移動することの多い人がそれにあった利用法(たとえば自動車の中で使う)をし、それに対応した満足(仕事やアクセシビリティー確保)を得ていた。一方まだ少数派ではあるが、遊び心理や行動をもつ人はそうでない人とは異なる利用や満足の仕 方をしていることもわかった。以上のことから、携帯電話利用から得られる満足が、利用者の置かれた状況と密接に関連していることがわかった。 しかもこの関連性だが、中身を見ると利用の仕方や利用から得られる満足が、利用者の生活状況に影響を与えているとは考えられない。つまりアクセシビリティーの満足を得られるから、あるいは車で携帯電話が使えるから、仕事で車を利用するようになるとか、建設業に従事するとは考えられない。だからこの関連性は、利用の仕方や満足が生活状況に影響をうけているものと考えられる。  次に、PHS利用と利用者の生活との関係だが、筆者の周辺で何人かのPHS利用学生に話を聞いたところ、アルバイトなどで夜間外出しがちで、連絡がとりにくいので必要性を感じた、という共通点が見られた。実際、96年の学生調査では、週3回以上夜間外出する人の割合は、ポケットベル常用者で43.0%、ポケットベル非常用者で29.5%だったのに対して、PHS利用者では50.0%にも達していた。同時に在宅時間もPHS所有者では平均11.5時間とポケットベル常用者(11.8時間)よりも短くなっており、夜間の活動性の高さがPHSの利用につながっていると考えられる。
まとめ
第1にメディアが生活に即して使いこなされる中で、さまざまな利用文化が生まれていた。たとえば、おしゃべり電話の文化は通信事業者の抑制にも関わらず広まっていった。あるいはもともと電話番号を表示させるために作られたポケットベルを若者は語呂合わせによるメッセージ伝達に使い、ポケットベルを束縛のメディアから緩やかな連帯のメディアに変えた。第2にメディアの利用やそこから得られる満足は生活状況と密接な関係にあった。たとえば、アメリカの農村の地理的孤立と電話普及、あるいは移動の多い業務形態と携帯電話の利用と満足の関連がそれである。第3に、たしかに各通信メディアは利用者の生活状況の必要に応じて一定の役割を果たしていた。日本の創業期の電話は各産業が必要とする迅速なテレコミュニケーションニーズを満たしたし、アメリカの農村の電話は農家の孤立を和らげた。あるいはポケットベルは外出しがちな若者に連絡の手段を提供し、携帯電話は仕事上の連絡をつけやすくした。しかしこれが人々の生活に劇的な変化を与えたかと言えば、そうはいえない。創業期日本では電話の前にすでに旗振り通信や小僧や電信を使ったシステムが、迅速なテレコミュニケーションを必要とする業務形態を成立させていたし、建設現場でもすでに分業システムは確立しており、これまではポケットベルや留守番電話で業務を遂行していたのである。若者にしてもポケットベルを使う以前からすでにアルバイトや遊びで外出しがちであったのである。これらの事例はむしろ、「装置の利用はたいていの場合は古いライフスタイルを維持するために使われる」というフィッシャーの命題に適合的だといえるのではないだろうか。もちろん、だからといって通信メディアが生活を劇的に革新するケースは皆無だと限らない。メディアの社会的影響に関しては、メディアの技術的特性から類推するようなことは避け、各ケースについて利用者の生活と利用の関係を確認しながら、今後も慎重に検討していく必要があだろう。

(1)それぞれの調査の詳細は以下の通り。調査方法はいずれも授業参加者に対する自記式質問票調査。93年の調査の調査対象者は東京周辺大学生・高校生(武蔵大学、白百合女子大学、駿河台大学、学習院高等科、蒲田女子高校等)539名。調査時期は1993年12月。94年調査の調査対象者は松山大学の学生510名。調査時期は1994年9月。96年調査の調査対象者は松山大学、松山東雲女子大学の学生469名。調査時期は1996年4月。 (2)同様に雑誌『宝島』90年5月9日号でもチーマーや暴走族が暴力団が持っているのをまねてポケットベルを使っていることを報じている。 (3)1基地局のサービスエリアを細胞状に構成し、少ない周波数で多くの加入者を収容する方式 (4)詳細は中村(1996)参照 (5)この調査は東京大学特定研究および筑波大学校費の補助を受けて行われた。調査の詳細は石井健一、中村功他『PHS利用調査報告書』INSTITUTE OF SOCIO-ECONOMIC PLANNING Discussion Paper Series No.669,University of Tsukuba,1996.参照 (6)詳しくは中村功(1996)「携帯電話の「利用と満足」−その構造と状況依存性」『マス・コミュニケーション研究』48号,146-159.参照
文献 営業局市場課調査担当(1974)「家庭では電話をどのように使っているのか−全国住宅用電話利用実態調査の結果」『電信電話業務研究』 294号1974年10月,52-58 Fischer C.S.(1992),America calling:a social history of the telephone to 1940,University of California, 福田伸ほか(1972)「住宅用電話の市場可能性を探る−住宅用電話総合利用実態調査の結果」『電信電話業務研究』 264号1972年4月,17-30. H.Herzog(1944)What Do We Really Know about Daytime Serial Listeners?,in P.F.Lazarsfeld and F.N.Stanton eds.,Radio Reserch 1942-1943,3-33 岩間夏樹(1995)『戦後若者文化の光芒』日本経済新聞社 石井寛治(1994)『情報・通信の社会史』有斐閣 橋元良明ほか(1992)「1991年東京都民情報行動の実態」『東京大学社会情報研究所調査研究紀要』2号,45-156 金光昭(1965)『赤電話・青電話』中公新書 Kern,Stephen(1983)The Culture of Time and Space 1880-1918,Harvard University Press 毎日新聞百年史刊行委員会編(1972)『毎日新聞百年史』毎日新聞社 Martin,James(1978)The wired Sosiety,Prentice-Hall(後藤和彦訳(1980)『テレコム』日本ブリタニカ) Marvin,Carolyn,(1988)When Old Tchnologies were New,Oxford university Press McLuhan,Marshall(1964)Understanding Media :The Extensions of Man,McGraw-Hill Book(後藤和彦・高儀進訳(1967)『人間拡張の原理*メディアの理解』竹内書店新社) Meyerowitz,Joshua(1985)No sence of place;The Impact of Electric Media on Social Behavior,Oxford University Press 宮台真司(1994)『制服少女たちの選択』講談社 水越伸(1993)『メディアの生成 アメリカ・ラジオの動態史』同文館 中村功(1996)「携帯電話の「利用と満足」−その構造と状況依存性−」『マス・コミュニケーション研究』48号,146-159.  大平健(1995)『やさしさの精神病理』岩波新書 Poster,Mark(1990)The Mode of Information,Polity Press(室井尚、吉岡洋訳(1991)『情報様式論』岩波書店) Roos,J.P.(1993),300000 yuppies? Mobile telephones in Finland,Telecommunications Policy,Vol.17,Iss.6,446-458.  高橋善七(1986)『日本史小百科 23 通信』近藤出版社 高橋勇悦(1988)「大都市青年の人間関係の変容−1.5次関係の概念に関する覚え書き−」『社会学年報』17 東北社会学会 吉見俊哉(1993)「歴史の中のメディア変容−草創期の音響メディアを中心として−」 『マス・コミュニケーション研究』42号,80-99 吉見俊哉(1996)「情報化とテクノロジーの政治学」『メディアと情報化の社会学』岩波書店、7-46